2006年3月31日

●悪徳業者は糞溜めに落とせ

 相変わらず後を絶たない談合入札、欠陥商品、偽装設計、インチキ広告…こうした企業犯罪が新聞に出ない日はない。

 こんな記事が出ると、まず「消費者不在」と怒ってみせるのが新聞のパターンだが、それもさることながら、世間の冷たい目を浴びるのは同業者ではなかろうか。

 例の姉歯建築士問題以来、知り合いの建築士がこぼしていた。「建築士でございますとは、なかなか名乗りづらくなった。お前も同類じゃないかというような目で見られて」。

 ごもっともである。新聞記者にもヘンなのがいる。かつての同業の端っくれとして、いい気持ちはしない。テレビの記者会見などでも、正義の剣士、月光仮面よろしく大声を上げて相手をとっちめている記者の姿をよく見るが、こいつは何様のつもりでこんなに威張っているか、見ているほうが恥ずかしい。こんなやつに限ってロクでもない記事しか書けない。

 偽メール事件で民主党を瀕死の状態に追い込んだ元記者と称する男も、この部類である。

 恥ずかしいくらいならまだいいが、ヘンなやつのために同業全体が信用を失う。同業として何か打つ手はあるのか。一、二の例外を除いてほとんどないのではないか。

 待てよ、この件に関して面白い話を読んだことがある。本棚を探していたらあった。阿部謹也著「中世の星の下で」という本。阿部さんはヨーロッパ中世史の専門家である。こんな話だ。

 中世ドイツはチューリヒでのこと。当時はあらゆる職業に同業(職)組合があって、品質から価格まで厳重にチェックしていた。それにもかかわらず、あるパン屋の親方がパンの目方をごまかし、それがバレた。これに対する同業組合の刑罰がものすごい。親方を檻に入れ、市の中心部につるす。大勢の見物が集まる中、数日後飢えに耐えかねて飛び降りる。下は糞尿などの汚水溜まりになっており、クソまみれになった親方は家に帰り、自宅に火を放って自殺を図った。このため市の大半も焼け落ちたという。

 この話は伝説のように職人から職人へと今でも伝えられているらしい。それが同業者を律する一つの教訓にもなっているようだ。品質管理や消費者第一という考え方は、何も職業倫理などというキレイゴトだけで成り立っているのではなく、厳しい刑罰によって裏打ちされていたのである。

 しかも、こうした制裁が役人によってではなく、同業組合、つまり「官」によってではなく、「民」の手によって行われていたことに注目したい。

 このチューリヒのパン屋の一件は今なお多くの教訓を残している。

 まず「官」から「民」の話。姉歯問題でも、構造設計の再チェックを同じ民間業者に任すのはケシカラン、「官」がやるべきだというが、チューリヒのパン組合は「官」より厳しい制裁をしている。なぜか、自分たち業界の信用、死活問題だからだ。

 もし今、外国牛を和牛と偽って売ったスーパーがあれば、スーパーの同業組合がスーパーの責任者を店の前に立たせて「モーモー」の牛の鳴きまねをさせる。痛快ではないか。高速道路の談合入札をやった大企業の幹部は、料金所の前に並べて雨の日も風の日も一週間頭を下げさせる。これも建設協会が加える刑罰だ。

 これを法律で罰するとなると、せいぜい執行猶予か罰金ですむ。これでは連中にとって痛くもかゆくもない。

 もし日本人の「恥の文化」が残っているとすれば、それを活用することだ。

 だが、公衆の面前に顔をさらすことなど恥ずかしくもなんともない、という破廉恥漢もいるだろう。そんな連中には仕方がないから、糞溜めの刑を加えればいい。

 そんなことをすれば人権侵害だと騒ぐ人たちが出てくるだろうが、市民の権利を守るというのは、まともな事をやった上での話だ。

 チューリヒのパン屋の厳しい刑罰は、消費者保護という市民意識の誕生につながったのである。市民の権利を守ることが、どうして人権侵害になるのか。

Posted by ewsn at 10:11

2006年3月23日

●「別れ」がきた

 例によって一杯やって、コタツでテレビを見ながらコクリコクリ。電話が鳴った。家内が出て、「はい、ちょっとお待ちください」と受話器をこちらに回した。近くの居酒屋のオヤジからである。「やっぱりYさんが亡くなっていました。これから通夜に行くが、どうしますか」という。「もちろん行く」と酔い覚めの水を一杯飲んで出かけた。時計は十時を回っていた。

 「やっぱり亡くなっていた」とオヤジが言ったのには訳があった。Yさんは店に毎晩のように顔を出していたのに、この4~5日姿を見せない。

 「あのオジイチャン、体でも悪いのかな」、常連たちはそんなことを話し合っていた。

 Yさんと店で顔を会わせるようになって、かれこれ半年近く。カウンターの端に座り、一品とってビールを2,3本じっくり時間をかけて飲んで帰っていく。一言も話さないことも多い。

 小柄だが、ガッチリした体つき。「何をしているんだろう」とみんな思っていたが、いくら無口といっても半年も顔を合わせていたら、Yさんの半生の姿がおぼろげながら浮かんでくるものだ。

 昭和5年生まれで、若いころは博労(ばくろう)、つまり家畜の仲買人をやってかなり儲けたこともあったらしい。その後は職を転々全国を回り、最後は別府のホテルの下働きを勤め上げて年金暮らし。家庭を持ったこともあるが、今は独りで近くのアパートに住んでいる。「わずかな年金だが、好きな酒と釣りも楽しめて、ありがたいこっちゃ」と口にしながら、ふと老いの独り身の寂しさを店のオヤジにもらすこともあったという。

 たしかに、Yさんには独り暮らしの老人の老残とか老醜といった陰はあまり感じられなかった。だれもが持っている家庭臭ささえなかった。それはそうだろう。その半生の大半は家庭と無縁だったのだから。ただ、年とともに深まる孤独さは、いかんともしがかったろう。

 通夜の席の棺の中の死に顔を見て店のオヤジがつぶやいた。「Yさん、よかったなあ。これで安心だ」。

 親父は店で飲むYさんに、襲いかかる孤独と懸命に戦う老人の姿を見ていたのだ。戦いはすんだのである。商売抜きに何くれとYさんに気を配るオヤジを見たことがあるが、小さな店にいつも常連客が立て込んでいる理由が分かるような気がする。

 あるとき、右翼を自称する二人の客が飲みに来て帰った後、Yさんがポツリといった。「院外団だなあ、あいつらは」。院外団?若い人には初めて聞く言葉だろう。政治家に巣食う政治ゴロのことである。今でいえば、さしずめ「偽メール事件」の元記者という男なども、これに類するかもしれない。

 院外団という言葉は死語である。昔の政治について書かれた活字では触れることがあるが、生きた日常会話の中で自然に出てくるのだから、Yさんは戦前昭和をそのまま身にまとった人、少なくともこの店ではその最後の人であった。

 通夜の席は、時間の関係もあったのだろうが、遠縁の男性が二人、線香も消えかかり、お棺の前にポツンといる寂しいものであった。

 いっしょに行ったY子さん(店を手伝っているオバチャン)がお棺をのぞいて、ワッと号泣した。年々、葬式がお金をかけて豪華になり、お義理で参列する人が多くなる中(義理も大切だが)、野辺送りという言葉がそのままふさわしいようなYさんの通夜、これで本当の「お別れ」だということをみんな感じ取った。

 通夜の帰り、また店によって飲み直そうということになって、Y子さんが湯豆腐をつくってくれた。

 「湯豆腐や命の果ての薄明かり」。湯豆腐好きの久保田万太郎が愛妻に先立たれて、詠んだ絶唱である。

Posted by ewsn at 17:10

2006年3月17日

●代議士はサムライ

テレビを見ながら、あの小泉劇場に対抗するには、ズーズー弁を操る男を座長にいただいて、渡部恒三劇団を作る以外にないと思った。

当たり前の話だが大衆演劇は大衆受けのする座長の人気によって支えられている。座長の強烈な個性と人間臭さ、それが最大の魅力となる。

 ズーズー弁?大いに結構ではないか、博多淡海のバッテン、クサの博多弁がなければあの人気はない。関西劇団がNHKアナウンサーのような正しい日本語の発声で演じたらだれも見やしない。

 もともと民主党一座は村芝居から左翼の新劇まで、さまざまな役者の寄せ集めである。

 こちらで革命歌を歌っているのもおれば、あちらでは平和な花園を夢見て乙女の祈りを演じているミュージカルグループもある。

 そうかと思うと、今の前原座長のように「中国の軍拡は日本にとって現実的脅威である」と歯切れのいいタンカを切る者もいる。天下国家をズバリ切りまくる壮士芝居の出身だろう。当然のセリフだが、新劇やミュージカル派には不人気。一座ガタガタである。

 そこに飛び出してきたのが役者としては高校演劇クラスの永田某。後はご承知通りのガセネタの脚本を一人芝居で演じ自滅に至るお粗末の一席。演ずる役者も未熟だが、舞台裏のマネジャーも舞台監督も経験不足、万場の罵声と失笑の中で退場せざるを得なくなった。

 今や一座は解団寸前だ。炎上、落城を前にした会津若松の鶴ヶ城である。

 その通り、渡部はだれもなり手がなかった国対委員長を引き受けるに当って、「炎上する城を前に、それを見送る白虎隊の心境である」と語った。渡部の故郷は会津である。事ならずんば自刃の覚悟だろう。「赤城の山も今宵限り…」ならぬ飯盛山に独り立つ孤影。「待ッテマシタ、恒チャン」、まさに新国劇なら一世一代の見せ場だろう。

 民主党を自滅の渕に追い込んだ永田議員に対して渡部はいう。「代議士の士はサムライという意味だ。サムライなら出処進退を明らかにして、議員を辞職すべきだ」。

 至極当然の話だが、サムライが出てくるところが新国劇風でなかなかよろしい。新劇やミュージカルでは出てこない一幕である。

 だが、世の中にはサムライが気に食わぬ連中がいるようだ。テレビを見ていたら、ニュースのワイドショウで、キャスターというのかコメンテーターというのか、よく見る顔の男だが、渡部のサムライ発言について批判していた。

 「代議士をサムライというのは間違いだ。代議士は選挙で選ばれた国民の代表である。それをサムライというのは時代錯誤だ」。

 バッカじゃなかろうか、この男は。代議士が選挙で選ばれることぐらいガキでも知っている。

 先生「1+1=?」、ガキ「ハーイ、2です」、先生「よくできました。ではサムライは?」、ガキ「ハーイ、ホーケン時代に人民の上にいた人です、先生「では、よい人ですか、悪い人ですか」、ガキ「悪い人です」、先生「よくできました」。

 コメンテーターの男の頭の中はガキと変わらない。「ハーイ、先生、2です」と答える程度である。

 渡部発言を補足するのも恥ずかしいぐらいだが、代議士=サムライと言ったのではない。人間の行動様式、生き様、男の美学を語っているのである。今の世の中に、チョンマゲを結って二本刀を差した男がいるはずがないじゃないか、バカタレが。

 武士道精神の復活を唱える藤原正彦の「国家の品格」が何カ月もベストセラーを続けている意味が分かってないのだろう、この男には。

 コメンテーターとかキャスターとして登場する人物には、現場の記者とか記者上がりというのが多い。その中には、たまにだが、「1+1=2」程度の頭しかない者がいる。同業として嘆かわしい。こんな連中に限って男の美学としての武士道精神が嫌いらしい。

 自民党は今度のガセネタの一件で、民主党をグウの音も出ないほどねじ伏せた。前代未聞の謝罪広告まで出させた。真相は明らかにせねばならないが、もう、これでいい。一件落着にしろ。「溝に落ちた犬には石を投げつけろ」。敗者には情け無用、徹底的に痛めつけよということだが、これは中国の魯迅のいった言葉。そういえば、中国や韓国が際限なく日本の謝罪を求めるのも、その根はこの文脈につながる。

 日本人の流儀は、その根を「武士の情け」という美しい言葉で断ち切ってしまうのだ。

Posted by ewsn at 10:05

2006年3月 9日

●「バコボン」って知っている?

 本箱を整理していたら(いや、整理なんていうものじゃなく、本箱をひっくり返していたら)、塩田丸男著「天下の正論、ジジイの暴論」という本が出てきた。おやっ、こんな本を買ったかな、と記憶がない。もともと塩田流の軽妙洒脱な人間学のファンなので、氏の著作とあれば買ったに違いない。

 本の発行日を見ると1993年とあるから、もう13年前である。買ったことを忘れるはずである。十年前どころか、数カ月、いや数週間、数日前に買ったことを忘れて同じ本を買うことがよくある。年をとったらというだけでなく、若いころもあったから生来の健忘症なのだろう。

 いくら忘れっぽいといっても、その本を熟読玩味しておけば、そんなことはないはず。買っただけで読んでないのだ。

 なぜ読んでいないのか。パラパラとめくって読んだ気になる本もある。めくりもせずにほうりっ放しても、買ったというだけで、一仕事終えた気分になることもある。あれやこれやで、わが貧しい書棚の中でさえも同じ本がよくかち合うことがあるのだ。

 こんなことなら、本屋に並んでいる本を眺めただけで、買ったつもり読んだつもりになってくれれば助かるのだが。

 さて、「天下の正論…」だが、パラパラとめくって読んでみて、これがメッチャ面白い。本箱の整理は中断である。千百円(本の値段)は無駄ではなかった。

 例えば、「バコボン」なんていう言葉を初めて知った。今ではほとんど死語だろう。こんな言葉を知って、かつ実践している人がいたら、死んでいないとしても化石人間だ。

 「バコボン」、ギャグ漫画の主人公ではない。「バコボン」の上に「タ」をつければ「タバコボン」だ。

 亭主がタバコを吸うと思ったが、タバコ盆がない。そこで女房に向かって「タ」といえば、すぐに「バコボン」を持ってくる。女房たるもの、かくあらねばならないという話、古典落語のネタにもなっているそうだ。

 ツーといえばカー、以心伝心、「タ」だけで十分に通じ合えるのが夫婦、そんな夫婦はもういなくなったのか。

 いや、いないことはない。皆無ではないのである。小紙(大分合同新聞)にこんな読者の投稿があった。

 「私は夫から『ありゃー、どき置いちょんのか』といわれただけで、その都度、『ありゃー』が指すものを瞬時に理解できる」(安心院院町・主婦)。

 さっそく、この投稿をコラム東西南北欄で取り上げさせてもらって、大要次のようなことを書いたのを思い出す。

 「偉い。これぞ主婦のカガミである。この主婦の方のお年は分からないが、ここまで達するには相当の年季を経たに違いない。しかし、何年も一緒にいても、こうはならない夫婦も多い。夫唱婦随といえば、男の身勝手な論理と抗議が来るなら婦唱夫随でもいい。夫婦は以心伝心、一心同体で『ありゃー』で十分に通じるのだ。亭主が『寒いな』といえば女房は『寒いわね』というのである。『じいさんが、じいっとコタツに入っているから寒いのよ。その辺を掃除でもしたら』などと一言多いことをいう必要はない・・・」。

 「おいと呼べば、はいとどこかで春隣」。いい句ですね。春風駘蕩たる夫婦の風景だ。「ありゃー」の夫婦と同じである。

 「おいじゃ分からないじゃないの」なんていわないの。この夫婦たちは。

 「タ?はっきりいってよ。またタバコ?タバコ吸うならあっちに行ってよ。本当にっ」。

 こんな夫婦には春は来ない。いつまでたっても木枯らしが吹く。

Posted by ewsn at 16:54

2006年3月 2日

●役人はなぜ働かなくていいのか

 給料から税金を引かれるごく一般のサラリーマンを除き、頭の痛い確定申告の時期がやってきた。

 特に商売をやっている人にとっては、申告はシンコクでも「深刻」な話である。

 税金とくれば「無駄遣い」という言葉がすぐ浮かぶ。今やこの二つの言葉は対語になってしまった感がある。

 それに続いて、「役人」という言葉がパッとひらめく。脳の中がそういうふうに連動するのである。役人については、いいたいことばかり、それが胸につかえて、心は千々に乱れるほどだ。

 役人といっても千差万別、大きなビルの奥でふんぞり返っている高級官僚から、役場の窓口にいる下っ端役人までさまざまだが、そのイメージは時代と共に変わってくる。

 概していえば、生まじめ、実直(同じようなものか)、勤勉、威張っている、安月給、清貧などというイメージは昔も昔、大昔の話。

 今は、威張っているという点を除けば、往時のイメージとはまったく逆を多くの国民が抱いているはず。

 そこで出てくる役人に対する不満は、「ダラダラするな。せめて給料に見合った分ぐらいは、しっかり働け」ということだろう。

 当然の要求だろう。そうでなければ民間の企業なら倒産だ。もっとマジメに働け。民間ならそれによって利益を生み、回りまわって世の中を豊かにする。直接的には金が儲からない仕事であっても、懸命に働くことによって世のため人のためになり、それによって人間社会は成り立っているのだ。

 役人だって人間社会の一員じゃないかというかもしれないが、それは違う。彼らが働けば働くほど儲かるどころか、金が出て行く。つまり税金だ。税金をこれ以上とられたくないなら、役人に働け働けと言わないことが早道だ。

 役人だって怠け者ばかりではなく、働く意欲のあるものはいる。ある日、新しい仕事を思いつく。企画立案のために何回も会議を開く。調査研究と称して時には海外にまで出向く、議員たちも便乗して海外旅行をする、いよいよ計画がまとまり、書類を作り、決済の印をもらいに下働きの女の子たちがあちこち走り回る、エレベーターの電気代もかかる、みんなよく働き活気がある。これすべて税金である。よくやったと評価され、男を上げる(今は女もいるが)。

 さて、仕事を始めるとなると当然、人員と予算が増える。もちろん税金が出て行く。かくて、働く意欲のある人間によって官僚機構は際限なく膨らんでいき、税金が注入されていく。

 C・N・パーキンソンというイギリスの政治思想家が唱えた「パーキンソンの法則」というのがある。「役人は部下を増やすことを望む。しかしライバルの出現は望まない。それゆえ、役人は互いのために仕事を競って作り合う」。

 ライバルには自らの権限内の仕事に触らせたくない。部下を増やしてそれにやらせる。やがて部下も同じように部下を欲しがり、仕事のための仕事を作っていく。

 パーキンソンは現代のイギリス人である。役人の世界は、人間の世界とは全く別の組織原理や動機で動いている、それは日本の官僚機構のみならず、洋の東西を問わないことをいっているのだ。

 ここに奇特な役人がいるとする。税金の無駄遣いは一切しない。人員も予算もギリギリまで節約し、三人でしていた仕事を一人でやり、予算も「これだけ節約しました」と返上する。「これぞまさに役人の鏡」と褒められるかといえばNOだ。役人の組織原理に反するような役人が存在し得るはずはない。ノンベンダラリと仕事をサボり、パチンコをしている職員よりも、もっと悪いのだ。

 有能で意欲のある役人は全く逆のタイプである。国民のためになろうがなるまいが、人や車の通らないところに道や橋を作り、閑古鳥の鳴く鉄筋コンクリートの箱を建てる。あるいは、自分のためにはもちろん、先輩、後輩のために特殊法人をじゃんじゃん設置し、もって役人天国に後顧の憂いなきよう働くこと、これぞ「役人の鏡」である。

 現代日本人の最大の誤解の一つは、役人に勤労意欲を求めることである。だが、国がある以上、役人の存在は必要である。そう、「必要悪」である。ただ、「悪」は厳しく監視し、抑え付けていかねばならない。

Posted by ewsn at 15:04