2006年9月29日

●秋風や…

 「たまには外に出て歩かにゃいけませんよ」。居酒屋のオヤジから忠告を受ける。夕方になるとさえない顔色をしてブラリと店に顔を出す私を見て心配して言ってくれているのである。

 別に引きこもっているわけではないが、用事もないのにブラブラ歩くという趣味を持ち合わせていない。出不精といえば出不精だが、歩くのが億劫である。歩きたくない。

 「それがいかんのですよ」とオヤジはいう。「なぜ歩きたくないのか」と聞かれても億劫だからと答えるしかない。なぜ億劫かといえば、歩きたくないからだ。なぜ歩きたくないかといえば…キリがない。

 「秋の七草でも採りに行こう」というオヤジの説得に応じて某日、別府の裏山の高原に車を走らせた。

 山はススキが波打ち、すっかり秋であったが、あいにく途中から雨に降られて、ハギとススキ以外は見つからなかった。

 これでも昔は飲み仲間たちと、時々は「林間に酒を暖めて紅葉をたく」という紅葉狩りなどもしたこともある。ただ飲むだけでは能がないと、俳句の吟行のまねごとをしているうちに、いつの間にか句会に「発展」していったのだから、酒飲みもバカにしてはいけない。

 その最初の吟行で私がひねり出した句が「秋風や年増女の身づくろい」である。

 この一句はわれながら臨機応変に自在に俳句を生み出せる万能装置、システム俳句だと自認している。

 なに、ネタは簡単だ。例の「根岸の里の侘び住まい」の焼き直しだ。

 「秋風や」のところに「初しぐれ」でもいいし、「初雪」でも「彼岸花」でも何でもいい。季語を一つ持ってくれば立派な俳句だ。矢でも鉄砲でも持ってこい。句会で兼題の季語を出され、みんなはウンウンうなっているときに、こちらは一丁上がりだ。

 ただ、いつもこの手を使うわけにはいかない。「また、年増女か」とバカにされ座は白けてしまう。

 それに問題は「年増女」だ。年増女とは定義があいまいである。日本語の意味の変遷の中で、この数十年にこれほど大きく変わった言葉も少ないのではなかろうか。

 昭和三十年代までの辞書を引いてみると、「二十歳前後を年増、二十三、四歳から三十歳までを中年増、それより上を大年増」とあるが、最近の辞書では「三十五、六歳ごろから四十歳までをいう」(小学館国語大辞典)。

 要するに娘ざかり、女ざかりがどんどん後退していき、客観的にも主観的にもいつまでたっても一人前の大人になりきれない女が増えているということだろう。

 晩婚化や少子化と無関係ではなく、やがて年増女そのものが死語化していくだろう。

 秋風や木枯しが見にしむ季節に己の年輪を重ね合わせて、思わず身づくろいをするのは別に年増女に限らず、われら老人の姿でもあるのだが。

Posted by ewsn at 00:15

2006年9月21日

●「官僚機構をぶっ壊す」を公約に

 政治家は辞めなければ正当な評価を下してもらえない。死ねば追悼記事の中で、それなりのお世辞は書いてもらえる。「棺を覆って事定まる」とはこのことだ。

 小泉さんは歴代総理の中では稀にみる高い支持率の中で辞めていくが、マスコミの点数は最後まで辛かった。マスコミも今日のことを書いて飯を食う商売だから仕方がない。後世の政治史家は戦後歴代の首相の中では、日本の政治に転換をもたらしたリーダーとしてかなりいい点数をつけるだろう。そんなことは、ちょっと目の効く記者なら分かっているが記事には書かない。


 その小泉後継者に安倍晋三官房長官がなった。小泉改革路線は引き継ぐそうだ。言い出したらきかないヤンチャな兄貴と育ちのいいボンボンの弟分、いいコンビだった。

 その弟に兄貴のまねが出来るか。兄は壊し屋の天才である。くどくどと説明しないワンフレーズ、キャッチコピーの天才である。反対派には「抵抗勢力」の一言で抑えつけ、それでも抵抗すると刺客を送り込んで止めを刺した。

 四畳半の密室政治や権謀術数の金権政治の闇取引より、荒っぽいが国民には分かり易い。

 その荒っぽさ、分かりやすさで、派閥政治を骨抜きにし、道路公団、郵政公社を民営化し、族議員に打撃を与えた。

 この手法を安倍が引き継ぐのは無理だ。むしろ安倍は小泉改革によって生じたヒズミを手直して、行き過ぎを是正していくべきだというが、ちょっと待って下さい。

 小泉改革が行き過ぎだったって?改革は中途半端、役人に投げ、無責任極まりないと批判してきたのはマスコミではなかったのか。

 確かにその通り、改革は道半ばである。ここでちょっとでも息を抜くと、派閥は不死鳥のように生き返り、役人どもは旺盛な食欲で税金を貪り食い始める。特殊法人は役人たちが打ち手の小槌を隠す難攻不落の伏魔殿である。役人どもの息の根を止めないかぎり、改革はいくら唱えても中途半端だ。

 行き過ぎは是正しなければならないが、それを言い出して一番喜ぶのは失われた利権の失地回復をねらっている税金ドロボーどもである。

 「自民党をぶっ壊す」といって国民の支持を得た小泉さんのまねをするなら、安倍さんこういえばいい。「官僚機構をぶっ壊す」。

Posted by ewsn at 23:39

2006年9月14日

●老人パワーの出番だ

 暗いニュースばかりが報じられると、「ああ、いやだ、いやだ。こんな世の中に長生きはしたくない。早くお迎えが来ないものか」と嘆く年寄りがいるが、こうした厭世気分に陥るのも老化現象の一つだろうと思っていた。

 だが、自分が実際にそうなっている。

 親が幼児を、子どもが年老いた親を殺すというニュースが新聞、テレビに出ない日の方が珍しい。つい、スイッチを切り替えたり、目を向けて読み飛ばしたりする自分に気づいて、「ああ、これも老化現象か」と苦笑する。だからといって、早くお迎えが来てくれとは思わないが。

 昨日の新聞にも、小学生の校内暴力が増えているという記事が出ていた。その中で教師に暴力をふるう子どもが目立つという。

 決してうれしいニュースではない。だが、世の中をはかなんだりする前に、そんな子どもを育てた社会に無性に腹立ってきた。

 先生が注意すると腕をふり上げたり、足げにしたりして向かってくる。衆をたのんで騒ぎ出し、収拾がつかなくなる。強く叱るとすると、「殴るなら殴ってみい、クビだぞ」とからかう。暴力教師とらく印を押されれば先生は終わりだ。

 手を上げたため、子どもたちの前で土下座させられた先生、以前はそんな光景は中学校ではよくあったというが、これはもはや教育の場ではない。それが小学校にも及んできたのだ。

 教育基本法の改正がこの何年間か論戦の的になっているが、教育の現場は改正問題を政争の具にしているようなヒマはない。

 緊急対策を提案しよう。結論からいうと、老人パワーを活用することだ。

 そう、早くお迎えが来てくれと願っている老人たちに、最後のご奉公をしてもらうのである。

 戦後教育で権利をたっぷり叩き込まれ、家庭のしつけを放棄した親たちに育てられたのが今の小学生たちである。学校の教師も同じ世代だ。子どもたちには責任はまったくない。責任はすべて親、教師にある。

 そこをはっきりさせないと、いくら小手先の論議をしてもダメ。

 たしかに戦後民主主義教育が掲げてきた子どもの自主性の尊重とか自由、平等だとかは崇高な理念だ。だが、そんな結構な理屈を並べているうちに、今の学校の荒廃が到来したのである。

 今は緊急事態である。ここは一つ、そんな理念は横に置いて、戦後教育に毒されていない老人パワーが出動すべきだ。

 そこで何をするのか。「文句をいわずに大人のいうことを聞きなさい」といえばいい。子どもたちの理屈や文句を聞くことはない。実はこんな簡単な一言が今の教師や親たちには言えないのである。いや、言う自信がないのだろう。

 子どもは地域社会で守ろうという声はよく聞く。それは交通事故や変質者から守るだけではない。老人会などが街角に立ったり、見まわりをしたりはしているが、学校の中で何が起きているかはあまり分からない。

 荒れた学校があると聞けば、老人連中がノコノコ出ていって、教師や親たちと話し合う。そこには老人の知恵も出てくるだろう。時には教室に顔を出し、騒ぐ子どもたちに「先生の言うことを聞け」と一喝をくらわすのもいいだろう。

 敬老の日も近づいた。みんなに慰められ、愛される老人だけが能ではない。時には嫌われ、煙たがられ、怖がられる老人も必要だ。世間ではいうではないか。「叱る者がいなければ子どもはダメになる」と。

Posted by ewsn at 19:51

2006年9月 8日

●私が飲酒運転をしない訳。

 福岡で泥酔した県の職員が車を運転、親子の乗った車を川の中に突き落とし、子ども三人を死なすという事故が起きて以来、飲酒運転に対する世間の目はいっそう厳しくなった。

 別に公務員だけが酔っぱらい運転をするわけではないだろうが、その事故がやたらに目立つ。彼らがたるんでいることは確かだろう。たるんでいる理由の一つは役所自体が飲酒運転に甘かったからだ。飲酒運転が分かれば即刻クビだということにすれば、九割方は減るはずである。クビをかけてまで運転しようという運転狂は精神科医の治療を受けたほうがいい。

 今や飲酒運転が犯罪であることは世の常識となった。犯罪であると同時に、ほろ酔い気げんで運転するなんていうのは酒に対しても失礼である。

 五十余年も酒を飲んできたが、自慢じゃないが酒に失礼なことはしたことがない。誠実に飲んできた。片手間に飲んだりはしない。だから仕事中は飲まない。飲まないのではなくて、生理的、心理的に飲めないのだ。

 一杯でも口に入ると、酒の方に誠意を尽くしていまい、とことんお付き合いをせずにはいられない性分だからである。

 よく仕事にかかる前に景気づけに一杯ひっかける人もいるが、あれが出きない。酒も仕事も中途半端になる。両方に対して不誠実極まりないではないか。

 こちらが酒飲みであることを知って、食事前に銚子かビールを一本つけてくれる場合があるが、あれは有難迷惑である。

 取りすました酒席などでも酒と料理が一通り出てしまうと、「ではこの辺でお茶漬けでも」という段取りになるが、当方としては、「ではこの辺でぼつぼつ腰をすえてお酒をいただきましょうか」という気分になっている時にである。

 最近は年のせいで酒量も落ち、外見上は程よい酒飲みに見えるかもしれないが、酒に対する真心は少しも衰えていない。

 生死を共にする心構えだから、余分なことは一切頭にないのだ。まして車を運転しようなどという世俗的な気持ちは起こらない。

 以上、私が飲酒運転も酔っぱらい運転もしないわけを述べたが、運転しようにも、車も持っていないし、免許もない、運転そのものが出来ないのである。

Posted by kimoto at 15:35