2007年1月25日
●モッタイナイは死語
ペコちゃんの不二家が消費期限切れの牛乳を使って洋菓子を出荷していたことがバレて、大騒ぎになっている。この一件に限らず、内部告発だろう、次から次へと問題が出てくる。
このままでは不二家は企業として成り立たなくなるのではないか、とテレビで解説していた。消費者をだましてきたのだから当然の報いだと納得しながら、テレビのチャンネルを切り替えたら、画面はアフリカの難民キャンプが映し出されていた。
内戦で数万人の難民が砂漠に集まっている。飢えと病気で次々と死んでいくのだ。飲み水さえ満足にない。飲むとすっぱい味がするという。その水をヨチヨチ歩きの子どもがカメから汲んで飲んでいる姿が痛々しい。
この水には賞味期限も消費期限もないけれど、飲まなければ人間が干上がってしまう。
日本では牛乳でもお菓子でも消費期限が過ぎておれば棄ててしまうはずだ。
不二家騒動と砂漠の水の二つのテレビを続けてみながら、そこにある余りにも大きな暴力的ともいえる断層を感覚的に受け入れるのに戸惑ってしまった。
ノーベル平和賞を受けたアフリカの女性学者が日本語の「モッタイナイ」という言葉に感心し、世界はこの言葉を今一度かみしめて、大切にすべきだと提唱したのは有名な話だ。
何年か前の話だが、日本の小学校であった事件を思い出した。
学校給食で毎回棄てられているコメの飯を見て先生が、「私たち毎日こんなモッタイナイことをしている」といって、子どもたちにその残飯を一粒ずつ食べさせた。先生は三粒食べたというところが泣かせる。
今どき感心な先生もいるものだと親たちは先生に感謝したかというと逆である。そんな不潔なことを子どもにさせて・・・とカンカンに怒って学校に怒鳴り込んできたから校長先生は平謝り。
余ったものは棄てる、消費、賞味期限が切れたものは棄てる、この国ではそれが正しい教育である。
「モッタイナイ」、これも本家本元では死語である。
2007年1月18日
●悪魔は野放し
「アンクル・トムズ・キャビン」、小説そのものは読んでなくても、アメリカの黒人奴隷の一生を描いたハリエット・ストウ婦人の作品であることは多くの人が知っている。
筋は単純だ。敬虔なクリスチャンであるトムは次々と売買され、最後は獣のような農場主の手に渡り、殴り殺されてしまう。本が出た1852年、当時の読書人口からみれば、30万部という驚異的なベストセラーになり、やがて奴隷解放運動を高める一翼となった。
だが、この本はヒューマニズムあふれる物語としてだけでなく、全く逆の読み方をされていたらしい。
「読書こぼれ話」(岩波新書)に出てくるのだが、オーストリアの精神病理学者の患者の中にはこの愛読者がいて、「トムが残忍なリンチを受ける場面が出てくると、激しい性的興奮を覚える」というのだ。
大阪府八尾市の歩道橋で歩いていた幼児を投げ落とし瀕死の重傷を負わせた男が捕まった。男にはこれまでも何回も幼児を誘拐した前歴がある。
相次ぐ幼児殺害や虐待、少女らをねらった通り魔事件など後を絶たないが、犯人たちの精神分析によると、彼らの行動には性的衝動の影がちらつく。
昔から残忍な性的犯罪はあったが、それは「世にも稀なる猟奇事件」と受けとめられていた。だが今は常態化しつつある。
それなら、いつでも起こる、どこででも起こる犯罪として社会的防衛システムがなければならない。
人間にはトムに涙する神の心も宿っているが、それに喜びを覚える悪魔も巣食っている。
なんとか悪魔を閉じ込めてきたのが宗教であり、教育であり、しつけでもあった。広くいえば文化であった。今はそれがない。特に性に関しては悪魔は野放しである。
2007年1月11日
●考えないことにします
日本は「非核三原則」というが、いまや四原則だそうだ。「持たず、作らず、持ち込ませず」に加えて「議論せず」。
北朝鮮の核実験に直面して、自民党の中川昭一政調会長が「日本の核兵器保有について議論はあっていい」と発言したことに朝野は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「議論してもいかん」というのである。被爆国の日本としては絶対に触れてはならぬタブーだ。憲法では「表現の自由」を保障しているが、核問題の前にはそれもまかりならぬ。
まるでピリピリと電気に触れたように思考停止、頭の中は真っ白。「議論せず」どころか「考えず」である。これでは「非核四原則」ではなく「非核五原則」というべきである。中朝露という核保有国に囲まれ、国家の安全を脅かされている国が、どう生き延びるか対抗策を考えることもいかん、そんな国がどこにあるだろうか。
なぜ考えてもいけないかというと、日本は唯一の被爆国だからという。逆ではないか。唯一の被爆国だからこそ、原爆の惨禍に二度と見舞われないためにどうすればいいか。それこそタブーを外し、あらゆる方策について考え、論議しなければならない。
いまさら国際的に摩擦を起こす日本の核武装論議などしなくとも、戦後日本の安全はアメリカの核の傘で守られてきたではないか、といわれればその通りである。
だが、アメリカが相手国の報復による数十万、場合によっては数百万人の自国民の犠牲を覚悟の上で日本のために核を使うかどうか保証はない。イラク戦争で三千人の戦死者が出たというだけで撤退圧力になっている国である。三万人じゃなく三千人ですよ。
