2007年6月28日

●復讐もまた楽しからずや

 県知事から喜寿の祝いのプレゼントが届いた。最初は商品のカタログが送られてきて、この中から選べというので、たしか夏のタオルケットかなにかを所望したはずだが、まだ包みをほどいていないので中身は確かめていない。

 実は去年も喜寿の祝いをしてもらっている。去年は数え年、今年は満年齢で七十七歳。行きつけの居酒屋のオヤジが祝ってやるというので一夜、ご馳走になり、釣り竿をプレゼントしてくれた。

 年をとると、一歳でも若く見られたいというが、その気はあまりない。一、二歳ぐらいどうでもいい。今年は満の喜寿だというと、ぢやぁもう一度祝ってやろうというかもしれない。

 若いころから老けてみられていた。まだ学生のころだから二十歳ちょっと過ぎ、散髪屋で三十かといわれたことがある。まだ学生のころだから二十歳ちょっと過ぎ、散髪屋で三十かと言われたことがある。もともと面相骨相からいって童顔とはほど遠いし、それより早く一人前になりたいと思っていた年ごろだが、十歳も年上にいわれたのはちょっとショックだった。

 若いころ、年より上に見られると、年をとってから逆に若く見られるものだとなぐさめられたが、いつまでたっても老けて見られる。

 一度だけ「若い」といわれたことがある。これも飲み屋での話だが、オカミから干支を聞かれたので「ウマだ」というと、「そうは見えないわ。お若い」とお世辞をいう。話しているうちに、一回り上の、つまり十二歳上のウマと受け取っていたのだ。そんな店ではあまり飲みたくない。

 困ったこともある。四十半ばころのこと。バスに乗ると、ご婦人が「どうぞ」と席を譲ってくれた。相手の年恰好は同じ四十代、いや、ひょっとしたら上かもしれない。次のバス停で降りるので譲ったのかと思って座ったが降りる気配はない。次のバス停でも、次のバス停でも…。とうとう、こちらが降りるところまでバスは来た。困った。しかし乗り過ごすわけにはいかない。だが老人をいたわったという相手の気持ちを無視するわけにもいかない。そこで演技を思いつき、いかにも年寄りらしくヨボヨボと立ち上がり、フラフラしながら「ありがとうございました」と礼をいった。まだこちらは四十代ですよ。

 「お気をつけて」とニッコリ笑って返すご婦人のヒトミに「してやったり」というイタズラッポイ光をチカチカと感じたのはヒガミか。本当はからかったのかもしれない。わが人生経験の謎の一つである。

 今度は、まだ若いつもりではしゃいでいるオバサン連中を相手に席を譲って復讐してみようか。

Posted by ewsn at 23:51

2007年6月22日

●「おしゃま鍋」=猫鍋の話

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。氏素性もとんと分からぬ。十日ほど前からこの家に住みつくことにした。

 ちょうどその日、ノドが乾いたので水を飲もうと、この庭にある小さな池をのぞいていたら、緋ブナが何匹か泳いでいる。片手を出して、チョッカイをかけようとしていたとき、「あらっ、猫が魚をねらっている」とスットンキ狂な声がして、太った老婆がかけよってきた。

 それが縁である。「しょうがない猫ね」と老婆はブツブツ言いながらお椀にキャットフードを入れて食わしてくれた。吾輩はこんなにうまいものを食ったのは初めてである。

 それにしても、猫用の珍味がなぜ置いてあるのか不審に思ったが、その訳はぼつぼつ分かってきた。

 この家には二カ月ほど前まで十八年も買われていた猫が死に、それ用のキャットフードがいくつか残っていたのである。

 道理で、庭の中に猫をかたどった石細工の周りに花を植えた土盛りがある。これがその猫の墓のつもりらしい。

 女主人はこの猫を猫かわいがりにかわいがり、猫も図に乗ってワガママの言い放題、餌にしても少しでも気に入らないとプイと横を向いて口もつけない。人間様も口にしないような高価な餌を次から次へと要求する。

 そんなワガママ猫とそれを許す女主人に、この家の亭主は内心苦々しく思っていた。時にはそのことで言い争いもしていたらしい。

 「猫にペットフードなど食わせることはない。残飯にミソ汁をかけた猫マンマをやっておけ」。

 この家の亭主というのは、一見おうように見えても、自分の酒代以外にはケチで、もともと猫の餌にカネを出すなどという発想自体がない。それというのも、戦中戦後の食糧難の時代、空腹を抱えて生きてきた世代である。猫の食うものにカネを出すどころか、猫をとって食おうかと思っていたことさえある。

 夏目漱石という作家がいて、吾輩に先んじて「吾輩は猫である」という小説で明治の猫の生き様を描いているが、その冒頭部分にこんな一節が出てくる。

 「・・・とで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕へて煮て食ふという話である・・・」。

 明治の時代にあって猫を食ったという話は別にそう珍しいことではなく、学生たちの間では「おしゃま鍋」と称して猫を捕えては鍋物にして蛋白質の補給をしていたという。

 この家の亭主が空腹のあまりわれわれを捕えて食おうと思っていたというのも、あながち責められないのかもしれない。

 ところで、吾輩はこの家で三度の食事、いや朝晩だから二度の食事にはありついているが、まだ家には上げてくれない。庭の片隅にある物置の中に空き箱を置いてそこを寝床がわりにしている。氏素性の明らかでないノラ猫とみてまだ警戒しているのだと思う。

 こちらもその方が気楽だ。いつでも飛び出せる。それに、この家の亭主の目つきがどうも気になってしょうがない。一度は「おしゃま鍋」に食指を動かそうとした男なのだから。

Posted by ewsn at 00:30

2007年6月14日

●そうしたものだ

 六日から十日にかけて大分県中部で断続的に起こった地震の震源地の一つはなんと、わが家の真下であった。
 いや、わが家というのは大げさだが、数百メートル範囲内のわが町内のどこかであることが、気象庁が割り出した緯度、経度から明らかになった。

 この一帯は活断層が密集している「別府―万年山断層帯」の上にあり、いつグラッときても不思議ではない。だから、わが家も真下といってもあながちウソではない。

 真下だからだろうか、「グラッ」とではなく「ドスン」とくる。震度4ともなれば、腹にこたえるような響きである。

 この間、震度1以上の地震は六十三回ほどあったそうで、慣れてくると震度1や2では物足りないような気になる。「よかった」と思う半面、「なーんだ、大したことはない」と感じるからおもしろい。

 人間には安泰を願う気持ちと、破壊に共鳴するDNAがどこかで共存しているようだ。

 地球四十数億年の歴史からみれば、大陸が割れたりくっついたり、海底がエベレストの頂上にせりあがったりの地殻変動の歴史である。今回の地震などは地球のマバタキ程度にもならない。 

 太古、われわれの先祖は地震、洪水、台風など天変地異を前にして自然の脅威を神の意思としてひれ伏してきた。今でも台風の夜などには、人間の力ではどうにもならない自然の猛威に信心薄き私でもふと神の存在を感じたりする。

 前触れもなく、いきなりきて大きな破壊をもたらす地震は台風とは違うが、自然(地球)というのはそうしたものである。

 神の思召しだからあきらめる外はない、というのではない。幻想や甘い期待や一人よがりなどいっさいを抜きにして、地球の現実を見れば、「そうしたもの」であるということだ。大げさにいえば現実直視の人生態度、地震がきても、驚かず、あわてず、騒がないこと。

 そんなことを考えて、別に公民館に避難などしなかったが、これが震度5とか6の大地震に見舞われ、家は倒壊、その下敷きになったとしたら、また別のことを考えるだろう。ではどうするか。そのときにならないと分からない。そうしたものだ。あまり教訓的ではないが。

Posted by ewsn at 22:07

2007年6月 7日

●自分のことは棚あげしよう

 もちろん毎晩ではないが、現役時代はよく深酒をして人に迷惑をかけた。特別に酒癖が悪いとは自分では思っていなかったが、酔えば大言壮語し、正義はわれにありとばかりに人を罵倒する。ときにはヒワイなことを口走りヒンシュクをかっていた。

 翌朝、断片的に前夜のことを思い出し、フトンをかぶって恥ずかしさのあまり「ギャア」と叫んでも取り返しのつくものではない。

 現役時代のことと書いたが、酒量が落ちただけで今も対して変わりはない。要するに年の取り甲斐がないのである。

 その現役時代、昼間は何をしていたかといえば、新聞のコラムを書いていた。他人に迷惑をかけるな、酒の上のことでもルールがある、世間には常識というものがある、そんなお説教がましいことも時には書いたりした。「よく言うよ」である。「自分のことは棚に上げて」とはこのことだ。

 己をかえりみて、あれこれ逡巡せず、自分のことは棚に上げなければ出来ない仕事というものは、現実には意外に多い。世の中は偽善に満ちている。

 マスコミの世界もそうだし、政治家はその最たるものだ。偽善を全否定すれば、この二つの世界は成り立たない。もし、この両者が本音だけでその役割を演じてごらんなさい。政治にはカネがいる、多少の汚いカネには目をつぶってくれ。最近よく話題になるマスコミ人の痴漢行為にしても、男だもの、若い娘のお尻を触ってみたくなる(するか、しないかは別にして)気持ちは分かるなどといったらどうなるか。

 清く正しく美しいものを求めてやまない有権者も読者も怒りまくるはずだ。だから敵に回すことはできない。偽善という装置が必要である。

 選挙が近づくと、いつもジャーナリストと称する連中の政界入りが話題になる。今回の参院選も舌鋒鋭く自民党政治の腐敗を切りまくっていたテレビ番組の女性アナウンサーが自民党から立候補する。今まで自分が攻撃してやまなかった世界に入っても彼女は矛盾を感じることはあるまい。自分のことは棚にあげ、偽善の使い分けを心得ている世界で育ってきたからである。

Posted by ewsn at 18:47