2008年10月27日
●『国民の目線』も時と場合
今朝のテレビでも例の緊急経済対策を論じていた。その中で、一人六万円の定額減税をしても、それが消費に回るかどうかは疑門なので、政府は現金かクーポン券で渡すことを考えているとのこと。
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どちらにしろ同じことである。金を使うヤツは使う、使わないのは使わない。個人としては、どっちが正しい選択か、もちろん後者である。好不況とは関係なく普段から節約貯蓄は美徳だ。まして、これから経済はどこまで落ちていくか分からない。そんなときに、少し位現金が入ったからといって、パッと使ってしまうような人間の先は見えている。そんなヤツとあまり親しくならない方がよろしいい。困ったときにはいつ借金を申し込まれるか分からない。
だが、政府は個人の美徳を助けるために減税するのではない。節約貯蓄を忘れて大いに使つほしい。例え浪費でも、それが国益になるからだ。事はハッキリしてきた。個人の美徳をいくら積み重ねても国益にはならない事がある。
マジメな人は目をむいて「そんなバカなことがあるか」と怒るだろう。怒っても仕方がない。世の中はバカバカしい事で満ち溢れているのが現実だ。
消費に限らず、こんな矛盾はいくらでもある。勤勉努力は美徳である。もしキャベツ農家すべてが懸命に働き豊作になったらどうなるか。大暴落である。個々(ミクロ)では正しくて
も集計し合成(マクロ)すれば間違ってくるという「合成の誤謬」は現代経済学の常識である。
野党やマスコミは今回の緊急対策の財源はどうするのか、赤字国債を出すのか出さぬのか、といって政府を攻め立てているが、そんなことは分かり切っている。ミクロで見れば均衡財政は正しい政策であっても、1929年の世界大恐慌のとき、アメリカのフーバー大統領は均衡財政にこだわり、傷口をいっそう深くした。「合成の誤謬」に思いがいたらなかったからである。
国民は正義を唱えるのが好きである。だからマスコミも同調する。「私たちは正しいことを言っているのに、政治はどうして聞いてくれないのか」と。『国民の目線』を大切にする(気にする)という政府にとっては弱いところだが、個々にとって善であってもそれを国の政策にしてはならない。
麻生総理の愛して止まぬ漫画だが、時にはいいことが書いてあるようだ。「クレヨンしんちゃん」に、こんな名言が出ているという。
「正義の反対は悪ではない。別の正義だ」
2008年10月17日
●アメリカよ、「すんまへん」ぐらいいえ
「国民の税金をヤツらのために使うな」。よく聞くセリフである。もう十何年も前の話だが、われわれ日本人は、こういって政府を責めた。今同じ事をアメリカ人がいっている。
れに比べて日本は‥」なるほど、さすがは自己責任の国とチョッピリうらやましかった。
だが、放置すればどうなるか。金融は大混乱、会社は潰れ、失業者は町にあふれ、妻子は飢えに泣く。このときでも役人だけはのうのうと暮らしているだろう。
日本人は素直で物分りがいい。国の危機を救うためならと政府による金融機関に対する五十兆円になんなんとする公的資金の注入を認めたのである(現在はそのほとんどを回収したけれど)。
だが今はそのアメリカである。「自己責任」をタテマエにするなら、公的資金の注入なんて問題外だ。それに金融界のトップたちは何億ドルという目をむくような収入を手にしている。彼らのために税金を使うなという気持ちは分かりすぎるほど分かる。
だが危機の背景にあるサブプライムローン問題は住専問題より根が深く、かつ悪質だ。返済能力のない人々にも住宅ローンを高利で貸付け、それを金融工学とかIT技術を駆使したとかといって証券化
し、不良債権を世界中にばら撒いた。
もともとレッセ・フェール(自由放任、市場に任せる)を主義とするブッシュ大統領、公的資金の投入には腰を引いているうちに世は世界大恐慌の様相を呈してきたというのが現状である。二重にも三重にも誤りを犯してきたアメリカの罪は重い。「すんまへん」一言ぐらいの謝罪があってもいい。
今後何年かかるか分からないが、いずれ危機は解消するだろう。人々の記憶からも遠ざかっていく。そしてまた何十年後かには同じ事を繰り返すだろう。そのときは手品の種に住専もサブプライムも金融工学も使うわけにはいくまいから何が飛び出すのか、それを楽しみにしたいが、こちらの命が持つまい。
ただいえることは、浜の砂ごと悪知恵のあるヤツ、役人天国は尽きることはこの日本ではあるまい。
「損をするのはいつも庶民」。こんな常套句はあまり好きではないが、認めざるを得ないときがあるのは残念である。
2008年10月 3日
●マスコミは偽善の執行人になるな
人には上り坂と下り坂がある。マサカという坂もある」。小泉元首相はこんなことを言って人を笑わせていた。話を面白くする名人だった。ご本人もそのマサカを演じてみせ、人々をサプライズさせていた。
突然の国会議員引退声明も、いままでの政治家からみればマサカのサプライズだが、後の地盤を息子に引き継いだのは‥‥小泉さんもやっぱり普通の父親だったのだ。引き際のよさという小泉流の美学も、ここで50点減点、50はチヨットきついか、30点減点。こんなのは晩節を汚すとまではいわなだろうが、少し残念でした。
小泉流を真似るわけではないが、「この世には、言っていい事と、言ってはいけない事がある。もう一つある。ついつい言ってしまう事がある」。つい言ってしまう事だけはどうしようもない。政治家がこれをやれば失言、命取りになる。失言の多くはホンネがポロリと出てくることだ。
ではホンネは悪いことなのか。否である。ホンネ自体は良くも悪くもない。場合によっては歓迎されることが多い。
タテマエしかいわないやつと酒でも飲んでごらんなさい。悪酔いして「酒代返せ」といいたくなる。ホンネを殺した世の中なんて潤いのないカサカサした偽善の世界だ。
だからといってホンネばかりをぶっつけ合えばどうなるか。それこそミもフタもない修羅の場と化すだろう。
まあ、ホンネとタテマエの微妙なバランスに上に成り立っているのがこの世である。
だが、政治の世界は複雑だ。裏ではホンネが渦巻いてるのに、表はタテマエで取り繕っている偽善の世界だ。
そんな中で国土交通大臣になったばかりの中山成彬さん
が失言問題で辞任に追い込まれた。成田空港のゴネ得やアイヌ問題では失言を認め発言を撤回したが、「日本の教育を破壊したのは日教組」という発言だけは撤回しなかった。
この発言はホンネがポロリとでたというより、かねてからの持論というか信念を述べたのだから撤回するわけには行かないというのだ。政治家の態度としてはその方が正しい。「かくすればかくなるものと知りつつも
止むに止まれぬ大和魂」である。
では、日教組批判は大臣としていってはならぬタブーなのか。そんなことはあるまい。良くも悪くも日教組は戦後教育に大きな影響を与えてきた。それを論議するのがタブーであるはずはない。これはホンネとかタテマエとかとは別次元の問題である。
マスコミの多くは中山氏の日教組批判発言を失言問題のように扱っている。それでなくとも政治の世界は偽善に満ち満ちている。マスコミが偽善の執行人になってはいけない。
