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2006年02月23日

下筌ダムの室原さんと会う

昨日下筌ダムのことを書きましたが、大きな間違いをしました。
室原さんのダム反対運動の拠点を「蜘蛛の巣城」としましたが、
正しくは「蜂の巣城」です。
30年も前のことですから…。年はとりたくないものですね。

ついでに私が室原さんと会ったときのことを書きます。
年寄りの「懐旧談」をお許しください。

それは昭和40年の冬だった。
激しいダム反対闘争で全国に鳴り響いた室原知幸さんの「蜂の巣城」は
行政の二度にわたる強制代執行によってすでに落城、共同闘争を組んだ
労働組合も有志たちも室原さんの元を去り、闘争は室原さん一人のものとなり、
法廷闘争に移っていた。

そんなとき、私は室原さんに会うために、お昼ごろ日田駅に降りたった。
あいにくの雪で、室原さん宅に行くための「鯛生行き」のバスは動いていない。
とにかく大山町の「建設省ダム工事事務所」に行くことにした。
この事務所は室原さんの反対闘争と四つに組んで、ダム建設を進めている
最前線の拠点で、副島所長がその責任者である。
しかし当時は、室原さんと副島所長の関係は、互いを攻撃するといった
敵対関係は終わり、互いを知るというソフトな関係となっていた。

副島所長が私を事務所の車で、室原さんの家まで送ってくれることになった。
路肩に雪が残り、道路は溶けた雪でどろどろしていた。
室原邸の前で私を降ろすと、室原さんから私が「建設省のスパイ」と間違え
られる恐れがあるので、室原邸をかなり過ぎたところで降ろしてもらった。

室原邸の入り口の土間に立った私を、室原さんは胡散臭そうに見ていたが
とにかく板の間に上がることを許してくれた。
そして突然「きょうはバスはないはずが…」といわれた。
そして「さっき建設省の車が通ったがね」と追い討ちをかけられた。
これには参った。すべてお見通し、サル知恵は通らない。
仕方がない。事情を話した。
室原さんは「ふーん」といい「帰れ」とはいわなかった。

室原さんは土間に続く12畳ほどの薄暗い板の間に、書類の山に
囲まれて座っていた。
いろいろ話したが、なんともぎこちない。
そのうちに室原さんが「実は私はあなたを建設省のスパイかもしれない
と思っていました。ここに来たときの経緯、素人にしてはあなたがダムに
詳しいことなどでね。でももうその心配はなくなつた」と、私の顔を見つめ
ながらつぶやくようにいった。
これで、お互いのモヤモヤぱ解消、おおいに話が弾んだ。

室原さんは、公益のためといって公権力が私権を侵すことの問題点に
ついて話した。ダム計画の初期には反対でなかった室原さんが、
突然反対に転じたのは、この私権に対する公権の行動が余りにも
倣岸だったからといった。裁判の鑑定資料を出して、詳しく話してくれた。
私もこの問題についての持論を展開して、話はおおいに盛り上がった。

そして「今夜はここに泊まりなさい」ということになり、夕食をご馳走になった。
メインディッシュにはアメタイの煮つけがついた。
そのうえお風呂まで入った。室原さんが湯加減を尋ねて世話をしてくれた。
さっぱりした気分で話を続けているうち、気がついたら午前3時を過ぎていた。
続きは明日ということで、座敷に床を敷いてくれた。
そして、室原さんが湯たんぽを入れてくれた。
フトンの縁をやさしく叩いて「ではおやすみ」といって部屋を去った。

国家権力を相手に激しい闘争をする人とは思えないやさしい面にふれて
しばらくは眠れなかった。

翌朝はダム反対闘争の戦場の跡を、室原さんの車で見て回った。
あちこちに「蜂の巣城」の残骸が積んであり、武士の戦いの跡を思わせる。
帰るときに私が「この戦いに負けたらどうしますか」と訊いたら、室原さんは
気色ばんで「なんて詰まらんことを訊くの。これまでなにを話したんだね。
情けない」といった。

室原さんにとって、この反対闘争は「勝ち負け」は問題ではなく、公権力が
傲慢な姿勢で私権を侵そうとしたら、どれだけの抵抗があるかを示したかった
のである。
室原さんにとって、ダム反対闘争は「人権闘争」だったのである。

室原さんは屋敷の外まで出できて、去っていく私を見送ってくれた。
強烈な一夜だった。

その後、ダムは完成し貯水も始まり、多くの観光客が訪れるようになった。
室原さんの「闘争」が、ダムの観光価値を高めたと皮肉る人もいる。
室原さんもずいぶん角が取れて、室原さん自身が観光客を案内する姿が
新聞でも見られるようになった。

そのころ、私が撮った下筌ダムの写真に「下筌ダム」の題字を付けることになり
私はこの題字を電話で室原さんにお願いした。
この電話に対して室原さんは怒気を含んで
 とつけもにゃーこつば、言なすなっ!(とんでもないことを言うな・肥後弁)
とガチャンと電話を切ってしまった。
観光客を案内するほどになったのだから、という私の判断は間違っていた。

それ以来室原さんと話すことはなかった。
私と会って5年後に、室原さんは亡くなった。
その半年後に室原さんの遺族は国と和解した。
室原さんは終生和解をしなかったのである。

長々と老いの懐旧談をお読みいただいて、ありがとうございます。

投稿者 takaakira : 2006年02月23日 13:03

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コメント

わたしは昭和40年に上津江村に生まれました。当時とんでもなく広い道や、トンネル、橋が高いとろこに作られ、まわりが鉄骨やコンクリート、アスファルトに変わっていくことに、「未来がやってきた」と本気で思っていました。
でも、間もなく集落や商店学校が解体され水が溜って、そしてついにいままで通っていた道や橋が沈むに至り、いいしれない恐怖を感じたのを思い出します。
「なにもかにもなくなる」という恐怖からか、小学2年生まで激しい夜泣きで、両親を困らせてしまいました。
いまは東京で暮らしています。
ときどき帰郷したときに通る湖畔の道から暗い湖面を見るたびに、村が冷たい水底に沈んでなくなることの「恐怖」をいまでも感じてます。
室原氏は、大きなものを失うことを予見されていたのでしょうか。わたしはいまも克服できていないかもしれません。

投稿者 ゆう : 2006年04月02日 00:29

わたしは昭和40年に上津江村に生まれました。当時とんでもなく広い道や、トンネル、橋が高いとろこに作られ、まわりが鉄骨やコンクリート、アスファルトに変わっていくことに、「未来がやってきた」と本気で思っていました。
でも、間もなく集落や商店学校が解体され水が溜って、そしてついにいままで通っていた道や橋が沈むに至り、いいしれない恐怖を感じたのを思い出します。
「なにもかにもなくなる」という恐怖からか、小学2年生まで激しい夜泣きで、両親を困らせてしまいました。
いまは東京で暮らしています。
ときどき帰郷したときに通る湖畔の道から暗い湖面を見るたびに、村が冷たい水底に沈んでなくなることの「恐怖」をいまでも感じてます。
室原氏は、大きなものを失うことを予見されていたのでしょうか。わたしはいまも克服できていないかもしれません。

投稿者 ゆう : 2006年04月02日 00:33

私の大叔父のことや蜂の巣城のことを書いてくださり、ありがとうございます。 私は強制代執行の行われた昭和35年に生まれました。小学校2年までかの地に住んでおりましたので、当時の残像は頭の中に残っております。。

投稿者 tom : 2008年05月22日 17:31

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